身延線、といえば飯田線と並んで、旧型国電である、今日の新性能車以前に作られた旧式の電車たちが1980年代まで活躍していた路線です。

 

1985年には113系・115系の次世代形車両、ステンレスボデーの211系電車が登場していますから、いかに旧型国電が長生きしていたか、が分かりますね。身延線・飯田線は、「旧型国電の楽園」、「旧型国電最後の牙城」などとも呼ばれて親しまれ、旧型車両ファンのみならず、鉄道ファンが集う路線でもありました。

 

さて、今日は、旧型国電の巣窟でもあった身延線に、突如として登場した”新性能電車の皮を被った”旧型国電、モハ62系のイラストをご紹介です。

 

イラストを見て”これは113系”じゃないか?と思われた方もいらっしゃると思います。はい、確かにこの車両、一見”113系”に見えます。。。113系や115系の顔で、正面の塗り分けが金太郎塗になっている点から見て”113系”ということができますね。

 

しかしながら、よくよく見てみると金太郎塗なのにタイフォンカバーが115系用、助手席側前面窓のワイパー形状、連結器・スカートの形状、ほろ枠の形状、そして裾絞りが末端で垂直になっているという、どこか私たちが慣れ親しんだ113系とは様子が違います。

 

この車両、知る人ぞ知る”新性能電車の皮を被った、れっきとした旧型国電”62系電車なんです。台枠、走行機器、電装品はそのまま。

 

車体だけは、新性能電車113系・115系と同等のものに乗せ換えたというまさに珍車です。分かりにくいですが、車体裾だけが垂直になっているのは、62系の垂直の台枠に裾絞りの113系車体をはめ込んだから、なのです。

新型車両だ、と思って乗ってみると、走行音はあの「釣りかけ音」だったのですね。

 

ではなぜ、車体だけ新しくて、走行機器が旧態依然とした旧式の車を流用したのでしょうか。

当時を振り返るとなぜこのような車両が登場したかがわかります。

 

国鉄が先の大戦中、戦時体制下の輸送力増強を目的として開発したのが今回のお題となる国鉄62系のタネ車、国鉄63系電車です。戦時中という特殊状況下において緊急的に製造されました。資材の節約、簡易的な構造を採用した当車両は、いわば戦時設計。

 

終戦後、本格的に量産され、戦後復興の一翼を担いました。

しかしながら、戦時中に開発された経緯から考えて、車両の老朽化は著しいものがあり、国鉄はそれらの代替となる車両を用意する必要がありました。ところが、時は日本国有鉄道が慢性的に大赤字を出していた時期。

 

新造車両を用意するほど、国鉄に余裕はありません。

 

そういった経緯から、苦肉の策として登場させたのが113系の車体を被った、62系電車だったのですね。車両の新造コストのおよそ半分が電装品関係と言われるように、走行機器や電装部品を新製するには多額の費用が掛かります。その点、車体だけを新しくして、乗客に快適な車内空間を提供する。それならば、コストも抑えられてお客様にも還元できる、という考え方です。

 

走行機器は古いままでしたが、車内は当時の新製車同等。冷房こそついていませんが、その快適なアコモデーションには、利用客も喜んだことでしょう。

 

これら62系電車も、車体は新しいにしても走行機器は旧型国電そのもの。故障の頻発や老朽化で登場からわずか10年ほどで引退してしまいました。

 

引退間近の写真を拝見したことがありますが、なにやら錆だらけで痛々しい姿だったように思います、10年でここまで痛むのかと思いましたが、やはり普通の113系や115系と製法が異なったのでしょうか。

 

この62系。引退後は、先頭車のクハ66形がカットモデルとして佐久間レールパークに設置。運転シュミレータとして第2の人生を歩んでいましたが、リニア・鉄道館開業に伴う同園の閉園により引退してしまったようです。

 

車体単体で見ると、ある意味不運な人生を歩んだ62系ですが、国鉄が財政赤字の中でも快適なサービスを提供するために試行錯誤した結果、として記憶に残る車両でもありましょう。

  1. 矢崎 宏 より:

    この車輌は改造費が予想外に高騰、検査周期が旧型のままなので、これがきっかけで地方路線にも直接的新型車を投入した方が良い❗という方針に変わったように思います。

入力エリアすべてが必須項目です。メールアドレスが公開されることはありません。

内容をご確認の上、送信してください。

ITEM CATEGORY

ITEM RANKING

SNS